読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

『騎士団長殺し』名言・格言

2月24日に発売されました、村上春樹の新刊騎士団長殺し。二か月経った今もなお書店で大々的に取り上げられていますね。

 

f:id:nejihon:20170424164658j:plain

 

 

そこで今作における名言・格言を列挙していきたいと思います。できる限り個人的に印象深いものではなく、普遍的に心に残るのではないか、という言葉を挙げるよう心掛けました。

 

また村上春樹自身のインタビューやエッセイなどにおける公言をもとに、解説(と言ってはおこがましいのですが…)を加えてみました。参考にしていただければ幸いです。僕は現在大学生で、去年『風の歌を聴け』に衝撃を受け、約半年で小説作品は全て読破するに至りました。なので週刊誌に書評を寄せている方にはむろん及びませんが、記憶がまだ真新しいことが唯一の長所ということでご容赦下さい(笑)

 

では早速。

 

一応ネタバレを避けたい方はご遠慮下さい。。

↓ 

なぜならその本質は寓意にあり、比喩にあるからだ。寓意や比喩は言葉で説明されるべきものではない。吞み込まれるべきものだ。」(第1部p452)

 

人形サイズの騎士団長(今作も出ましたね、村上フィクションならではの超常現象!)が絵画について言及したものです。村上作品には文字通り想像していたら混乱する、メタファー(隠喩)が多用されます。主人公の「影」が分離して動き回ったり、空から魚が降ってきたり、またリトルピープルと呼ばれる小人たちが登場したり(笑)今作も然りですね。非現実的でなくとも主人公が井戸の底に降りて考え事をしたり、長々と手紙の中で本筋とは関係ない戦時中の経験を回想したりと、純粋に読み進めるべきでないことが多いです。しかもこれら伏線?なるものが、ほぼ回収されることなく物語は完結するのです!(笑)アンチ村上春樹がファンと同数近くいるのにも頷けます。

さて今作は主人公が画家。思うに、著者は自身の「小説」という「芸術」に対する姿勢を、主人公の「絵画」という「芸術」への姿勢で遠回しに表現したのではないでしょうか。つまり超常現象らを含めた村上作品は言葉で説明されるものでなく、呑み込むのだと。僕はそう解釈しました。確かに芸術とは本来説明できない気もします(と言っても芸術にはすこぶる疎いのですが…)。好きな音楽など…。

 

 

 

 

 「しかしシステムというものはいったん動き出したら、簡単には止められない。」(第2部p95)

 

村上春樹は過去にも度々「システム」について言及しています。エルサレム賞・受賞時の演説では小説を書く理由を、我々の魂がシステムにからめ取られ貶められることのないようそこに光を当てるため、とスピーチしました。21世紀を生きる我々は「システム」に囲まれ生きています。爆撃機や戦車はもとより、身近なものでは時刻通り運航する電車やバス。本文中では戦時中の徴兵制。範囲が広く枚挙にいとまがないでしょう。日々「システム」を前に汲々としています。

さてこの文は幅広く応用が効くと思いますが、僕は電車を眼前で逃したときなんか心を落ち着かせることを手伝ってもらっています。「仕方ない、我々はシステムには勝てないんだ」と。諦観ですね(笑)

 

 

 

 

わたしにはだいいち顔がない。顔のないものの似顔絵をどうやったら描くことができるのだ?どうやって無を絵にすることができる?」

ぼくはプロです」「顔がなくても似顔絵は描けます」(第2部p356)

 

顔のない男と「私」との会話です。これは捉え方がきっと千差万別でしょう。正直言って僕もあまり分からないです(笑)ただ村上作品はどの作品も(例外なしにと言っても過言ではない?)、押しなべて結論を読者に委ねています。ある本の中で著者は、「小説家とは多くを観察し、わずかしか判断を下さないことを生業とする人間だ」と語っています。まだ続きがあるのですが簡潔にまとめます(笑)これに僕は深く感銘を受けました。そもそもこの世の中で結論、答えが決まっているものなど本当にあるのでしょうか。だから読者たちがそれぞれ個人的な見方をするのが自然なのでしょう。

少し脱線しましたが僕個人の解釈としては一つに、「プロ」への言及と見なします。『1Q84』という作品でも「プロというのは猟犬と同じだ。普通の人間には嗅ぎ取れない匂いを嗅ぎ取り、普通の人間には聞こえない音を聞き取る」というセリフがあります。顔のない人の似顔絵を描くというのはあくまでメタファーとして、プロは庶民には到底できないことができる、ということを表現していると捉えました。

またたとえ「無」からであっても、人は何かを作り出すことは可能なのだ、という希望のメタファー?とも言えるかもしれません。

 

 

 

 

かたちあるものにとって、時とは偉大なものだ。時はいつまでもあるというものではあらないが、あるかぎりにおいてはなかなかに効果を発揮する。」(第2部p488)

 

きっと人それぞれ「時」の恩恵を受けているのではないでしょうか。一見その時は効果がないように見えても、後々になって大きな成果をもたらすこと大変な困難を前に取り乱しそうになっても、時間が経てばいくらか冷静に眺めることができる。多かれ少なかれ誰しもこんな経験があるはずです。また長い時を超えて今も読み継がれる古典文学作品などは、確かな価値があると言えるのではないでしょうか。『ノルウェイの森』という作品でも「俺は時の洗礼を受けてないものを読んで貴重な時間を無駄に費やしたくないんだ。」というセリフがあります。「時」に耐えた作品は少なくとも一定の妥当性はあるのですね。むろんプラスのことだけではないでしょうが、「時」は偉大なはず?です。

 

 

さて拙いながらも僕の見解を示させて頂きましたが、以下では説明しづらい(する必要のない?)けどなんか良い、という言葉を並べさせてもらいました(笑)独自にご解釈ください。

 

 

 

しかしそれまでに私は時間を必要としている。私は時間を味方につけなくてはならない。」(第1部p12)

 

偽装した祝福。かたちを変えた祝福。一見不幸そうに見えて実は喜ばしいもの、という言い回しだよ。Blessing in disguise。で、もちろん世の中にはその逆のものもちゃんとあるはずだ。理論的には」(第1部p142)

 

大胆な転換が必要とされる時期が、おそらく誰の人生にもあります。そういうポイントがやってきたら、素速くその尻尾を掴まなくてはなりません。しっかりと堅く握って、二度と離してはならない。世の中にはそのポイントを掴める人と、掴めない人がいます。」(第1部p158)

 

まだ何も描かれていないけれど、そこにあるのは決して空白ではない。その真っ白な画面には、来たるべきものがひっそり姿を隠している。目を凝らすといくつもの可能性がそこにあり、それらがやがてひとつの有効な手がかりへと集約されていく。」(第1部p329)

 

歴史の中には、そのまま暗闇の中に置いておった方がよろしいこともうんとある。正しい知識が人を豊かにするとは限らんぜ。客観が主観を凌駕するとは限らんぜ。事実が妄想を吹き消すとは限らんぜ。」(第1部p449)

 

うまくいっているあいだは、ずいぶんうまくいっていたと思う」「古いジャガーと同じだ。トラブルの発生しないうちはとても気持ちよく走る。」(第2部p86)

 

それは限られた時間に、限られた場所でしか起こらない交流だった。やがては薄らいで消えてしまう。しかし記憶は残る。記憶は時間を温めることができる。そして―もしうまくいけばということだが―芸術はその記憶を形に変えて、そこにとどめることができる。ファン・ゴッホが名もない田舎の郵便配達夫を、集合的記憶として今日まで生きながらえさせているように。」(第2部p112)

 

どんなことにだって必ず良い側面があります」(第2部p241)

 

しかし彼だって、言うまでもなく時間と空間と蓋然性に縛られて生きている。」「言うなれば我々は一人残らず上下四方を堅い壁に囲まれて生きているようなものなのだ。たぶん。」(第2部p259)

 

この人生にはうまく説明のつかないことがいくつもありますし、また説明するべきではないこともいくつかあります。とくに説明してしまうと、そこにあるいちばん大事なものが失われてしまうというような場合には」(第2部p404)

 

我々はそれぞれに明かすことのできない秘密を抱えて生きているのだ。」(第2部p510)

 

この世界には確かなことなんて何ひとつないかもしれない」「でも少くとも何かを信じることはできる」(第2部p528)

 

 

 

いかがでしたでしょうか。くどいようですが、受け取り方は読者一人ひとり自由です。僕の見方が気に入らなかった方がいらっしゃいましたら謝ります、ごめんなさい。

ただ自分に引き寄せて取り入れるというのは、小説の醍醐味ですよね。もちろん映像や漫画を否定するつもりは毛頭ありませんが(!)特に村上作品は輪をかけて「小説」?だと思います。気になった方は他の代表作などを手に取ってみてください!